割り当てられているスペースが限られていますので何回になるか分かりませんが、これからお話しすることは、以前、日 本長老教会の合同教育委員会の要請にしたがって記しました「長老政治について」という小論に基づいています[もとの文書は玉川上水キリスト教会のホーム ページに掲載されています(http://www.hat.hi-ho.ne.jp/ists1970/)]。
「長老教会って、どんな教会?」(1)
キリスト者の中には教会政治を認めないという立場の人々もいますが、地上にあるキリストの教会は何らかの形の集団 で、それを形成するうえでの原理、原則があると考えている教会は、監督制、会衆制、長老制という三つの教会政治の形態のどれかを採用しています。ただし、 実際には、それぞれの教会によってバリエーションがあります。
次に、それぞれの形態の特徴を記しますが、ここでは、長老制を最後に取り上げることになります。それは、長老制に は、監督制と会衆制の問題点を意識して、それを修正しているという一面があるからです。そして、この場合の問題点というのは、人の目から見て合理的でない とか、時代に合わないとか、何らかの点で都合が悪いというような意味ではなく、教会政治を教会のかしらであられる主の御言葉が示している原則に沿ったもの にしようとしたときに考えられる問題点という意味です。
監督制の特徴は三つあります。第一に、信徒と教職の間に区別を設けています。そして、教会を治める権威は教職のみに あるとします。教会会議の議員は教職のみです。第二に、教職の間に、地位と職務による上下の階級的な区別を設けています。基本的には、上位から、監督と司 祭と助祭(執事)に分かれます。監督は使徒権を継承しているとされます。新たな監督、司祭、助祭(執事)を任命するのは、監督たちです。第三に、監督の管 轄下にある教区制を採っています。
「長老教会って、どんな教会?」(2)
前回は、監督制、会衆制、長老制という教会政治の基本的な形態のうち監督制の特徴についてお話ししました。監督制を採用している教会としては、 ローマ・カトリック教会、ギリシャ正教会などの東方教会、英国国教会(聖公会)、ルター派のある教派、メソジスト系のある教派などがあります。
ついでながら、ローマ・カトリック教会とプロテスタント教会はともに西方教会に分類され、東方教会と区別されます。
次に、会衆制の特徴ですが、ひとことで言いますと、会衆制は監督制が設けている区別をすべて否定します。
具体的には、第一に、監督制が信徒と教職を区別し、教職にのみ教会政治上の権威を認めるのに対し、会衆制では、教会政治上の決定権はすべて教会員にあります。教職も一信徒であり、教職は職務として教職ですが、教会政治上、特別な権威はありません。
第二に、教職の間に地位と職務の上での階級的な区別はありません。
第三に、教会会議の間にも階位的(段階的)な区別はありません。各個教会が完全独立していて、各個教会の会員総会以上の権威はありません。各個教会が連帯して教団を組織するのは、各個教会間の協力のための「連盟」(「連合」、「同盟」)によるものです。
会衆制を採用している教会は、組合派の教会、バプテスト派の教会、単立教会などですが、一般に、信条や信仰告白を基準とすることに反対します。
最後に長老制の特徴ですが、ひとことで言いますと、長老制は監督制と会衆制の中間を行くものと言えます。
具体的には、第一に、監督制が信徒と教職の間に区別を設けて、教職のみが教会政治上の権威を持つとするのに対して、長老制では、信徒を代表する治会長老(日本長老教会では「信徒長老」)も教会政治に参与します。
第二に、監督制が教職の間に地位と職務による階級的な区別を設けているのに対し、長老制では、教職の間に地位と職務の上での階級的な区別はありません。教会政治上の権威において教職は平等です。
第三に、会衆制が教職に教会政治上の権威を認めないのに対し、長老制は、教会を治める者(教師と長老)の権威を強調します。教会を治める者は単なる会衆の代表者ではなく、キリストから任命されたキリストのしもべです。
第四に、会衆制が各個教会の完全独立性を主張するのに対して、長老制では、各個教会(「地区教会」)は自律的ではありますが、各個教会越えて広がる地域 教会(同じ地域にある地区教会から成っている)があり、さらにそれを越えて何段階かに広がる地方教会があり、その全体が一つの教会であると理解していま す。そして、地区教会の長老たちによって構成される小会、地方教会の長老たちによって構成される中会、さらにそれを越える地方教会の長老たちによって構成 される大会、さらには総会があって、共同牧会(監督)権を持っています。
長老制を採用している教会は改革派教会と長老教会です。
「長老教会って、どんな教会?」(3)
これまでお話ししましたように、「長老政治」は教会政治の一つの形態です。これから、他の教会政治の形態との区別という観点からではなく、長老政 治の特徴についてお話ししていきたいと思います。しかし、そのことについてお話しする前に、そもそも教会政治は必要なのかということについて、何回かに分 けてお話ししたいと思います。
私たちは「日本長老教会」を名乗っておりますが、これは教会政治において長老制を採用していることを前面に押し出している名称です。そうであれば、日本 長老教会においては教会政治は重く考えられており、その必要性に関しては議論するまでもないことであると思われます。しかし、実際には、教会政治の必要性 に関して、十分な理解が行き渡っていない可能性があります。それで、改めて教会政治の必要性について考えておきたいと思うのです。
教会政治に関しては、これを否定する立場があります。原理的に教会政治を否定する立場を取るのは、クェーカー教徒、プリモス・ブレザレンなどです。この 立場に立っている人々は、教会を組織化することは、教会を腐敗させ、キリスト教本来の精神を失わせる結果となると考えます。組織化された教会においては、 神から与えられる「賜物」が否定され、人間が制度化した職務がそれに取って代ってしまい、聖霊による生きた交わりが失われてしまうと考えるのです。公的な 礼拝は、各自が聖霊の「うながし」に従うことによってなされるとされています。
おそらく、日本長老教会の会員の皆さんはこのような考え方はしないと思います。しかし、教会政治を否定的に考えることにつながる、別の問題があるかもし れません。それは、 教会政治に対する無関心という問題です。先ほどの教会政治を否定する立場を取る方々は、意識的に、また、原理的にその立場を取っています。しかし、教会政 治に対する無関心にはそのような自覚はありません。原理的なところできちんと考えて、無関心という立場を取っているわけではないのです。何となく、教会政 治は信仰の在り方とは関係ないと考えているということでしょう。
教会政治に対する無関心にはいろいろな原因があると思われますが、深いところでは、その人の信仰の在り方、信仰の理解と関わっています。たとえば、救い を、単に個人の魂の救済であると捉え、信仰を個人的なことと捉えている人々の間では、教会を便宜的な集いと捉える傾向があります。教会の集いによって、個 人個人の信仰が励まされ、強められるということが教会の存在の目的であると考えられるのです。そのため、教会政治に対する関心は低くなる傾向にあります。 教会政治は、組織運営のことであり、それは関係者に任せておこうということになります。
教会の集いによって個人個人の信仰が励まされ強められることは確かです。しかし、そのこと自体が教会の存在の目的ではありません。これは、私たちの信仰 の理解にとってとても大切なことですが、キリストのからだである教会は、神さまの創造の御業とその回復としての救済の御業のご計画の中に、中心的な使命を 委ねられた契約共同体として存在しています。個人個人の信仰が励まされ強化されることは、教会がその存在の意味と目的にそって存在しているなら、必ず、そ の結果として生まれてくるものです。
また、信仰をお互いに励まし合い、強化する必要がなくなるであろう、キリストの再臨後の新しい天と地においても、キリストのからだである教会は、意味あるもの、目的を持つものとして、存在し続けます。
教会政治は、このキリストのからだである教会の存在の目的としての、主から委ねられている歴史的な使命の実現に関わるものです。
「長老教会って、どんな教会?」(4)
今回から、教会政治にかかわる御言葉を取り上げたいと思います。まず、まず、神さまの贖いの御業の歴史における教会の存在の意味にかかわる御言葉として、エペソ人への手紙一章二〇節~二三節を見てみましょう。二〇節、二一節には、
神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。
と記されています。ここでは、栄光のキリストが父なる神さまの右の座に着座されたことが示されています。これは、詩篇一一〇篇一節の、
主は、私の主に仰せられる。
「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。」
という御言葉の成就です。それで「すべての支配、権威、権力、主権」は、メシヤの「敵」である暗やみの力です。これが、霊的な戦いにおけるキリストのからだである教会の勝利の基礎です。
二二節前半では、
また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、
と言われています。これは栄光のキリストが「万物を彼の足の下に」従わせるという詩篇八篇六節を成就し、ひいては創世記一章二八節の「文化命令」(歴史形成の命令)を成就しておられることを示すものです。
「長老教会って、どんな教会?」(5)
前回は、エペソ人への手紙一章二〇節-二三節に記されている御言葉に基づいて、キリストのからだである教会は栄光の キリストのご臨在によって満たされていること、そして、そのような教会の存在は、天地創造の初めに神さまが神のかたちにお造りになった人に委ねられた「文 化命令」(歴史と文化を造る使命)を実現することであるということをお話ししました。また、それは、エペソ人への手紙一章の流れの中では、九節、一〇節に 記されている、父なる神さまの「みこころの奥義」の実現の第一歩としての意味をもっているということもお話ししました。
これは、キリストのからだである教会の存在には「宇宙論的な」意味があるということを示しています。
同じことは、ローマ人への手紙八章一九節-二一節に、
被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
と記されています。
ここでは「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいる」と言われています。このことの背景は、 天地創造の初めに神さまが人を神のかたちにお造りになって、これに「文化命令」をお委ねになったことがあります。これによって、神さまがお造りになったす べてのものが神のかたちに造られた人との一体性のうちにおかれました。このことは創世記の記事からは分かりにくいのですが、詩編八篇六節に、
あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
万物を彼の足の下に置かれました。
と記されていることから分かります。
このように、神のかたちに造られた人との一体性にあるものとされた被造物は、人が造り主である神さまに対して罪を犯 して、御前に堕落してしまったことによって、人との一体にあるものとして「虚無に服した」と考えられます。ということは、もし、神のかたちに造られた人が 造り主である神さまとの本来の関係にあるものとして回復されるなら、被造物も、その回復された人との一体において、本来の状態に回復されるということにな ります。
ローマ人への手紙八章の流れでは、被造物がその出現を待ち望んでいる「神の子どもたち」は、ただ単に、天地創造の初 めに神のかたちに造られた状態に回復された人のことではありません。十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されたことに対する報いとしての 栄光をお受けになって、死者の中からよみがえられた栄光のキリストと一つに結び合わされて、その復活のいのちによって新しく生まれて神の子どもとされた主 の民のことです。神の子どもたちは終りの日に再臨される栄光のキリストのお働きによって栄光のうちによみがえるようになります。
ですから「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます」ということは、 天地創造の御業によって造り出された最初の状態に回復されるのではなく、その完成の状態に至ることを意味しています。言うまでもなく、それは、終りの日に 再臨される栄光のキリストによる再創造の御業によって造り出される「新しい天と新しい地」(黙示録二一章、二二章)として実現する世界のことを指していま す。この「新しい天と新しい地」において完成する歴史は、栄光のキリストが父なる神さまの右の座から注いでくださった御霊のお働きによって、すでに始まっ ています。その中心にあるのが、栄光のキリストのからだとしての教会の存在です。
「長老教会って、どんな教会?」(6)
第四回目から、教会政治にかかわるみことばを取り上げています。今回は、教会において長老たちが立てられることに関するみことばを見てみます。
まず、使徒の働き二〇章二八節-三〇節に記されているみことばを見てみましょう。これは、その前の一七節に記されているみことばから分かりますように、エペソにあった教会の長老たちに対するパウロの奨励のことばの一部です。二八節には、
あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。
と記されています。ここでは、教会と長老についていくつかのことが示されています。
まず取り上げたいことは、長老たちを立てたのは聖霊であるということです。
言うまでもなく、これは長老たちが聖霊の直接的な指示によって立てられたということではありません。一四章二三節には、ルステラとイコニオムとアンテオケにおいて、パウロとバルナバが
彼らのために教会ごとに長老たちを選び、断食をして祈って後、彼らをその信じていた主にゆだねた
と記されています。エペソにある教会の長老たちもそのような手続きを経て選ばれたと考えられます。しかし、そのようにして立てられる長老たち自身を 育ててくださり、長老にふさわしい人格的な資質と必要な賜物を与えてくださり、実際に、選ばれるように導いてくださったのは聖霊であるのです。これは今日 においても同じです。
このように、長老を立ててくださるのが聖霊であるということから、さらに、いくつかのことが考えられます。
第一に、長老の選出に手続きがあり、それに主の民がかかわりますが、長老を任命するのは主の民ではないということです。その意味において、これは国政 において、選挙によって選出された議員が、国民から権威を委託されるということとは違っています。長老は教会のかしらであられる栄光のキリストによって任 命され、キリストのからだである教会を牧会する責任を栄光のキリストに対して負っています。(参照・ペテロの手紙第一・五章一節-四節)
第二に、長老たちを立ててくださるのが聖霊であるということは、長老たちを選出することが教会のかしらである主のみこころであるということを意味しています。長老を立てることはオプションなのではありません。
先ほど、パウロとバルナバが、自分たちの宣教によって建設された教会に長老たちを立ててから、「彼らをその信じていた主にゆだねた」と記されています。また、テトスへの手紙一章五節には
私があなたをクレテに残したのは、・・・私が指図したように、町ごとに長老たちを任命するためでした。
と記されています。これらのことも、みことばにおいては、長老が立てられることを当然のことを賭していることを示しています。
さらに、長老の資質については、テモテへの手紙第一・三章一節-七節やテトスへの手紙一章五節-九節に記されています。このように長老の資質について 詳しく規定されていることも、長老を立てることを当然のこととして踏まえています。[長老の資質と賜物については、拙著『長老について』を参照していただ ければ幸いです。]
第三に、このように長老たちを立ててくださる聖霊は、その長老たちをとおして、ご自身の御業をなしてくださるということを意味しています。聖霊は長老 たちとともにいてくださり、牧会の働きを導いて、実を結んでくださるとともに、長老たち自身を人格的に成長させてくださり、賜物をさらに磨いてくださるの です。
「長老教会って、どんな教会?」(7)
前回は、長老が立てられることに関するみことばとして使徒の働き20章28節を取り上げました。そこでは、長老を立ててくださるのは聖霊であるということが示されていました。続く29節には
「私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中にはいり込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。」
と記されています。これはパウロがエペソにある教会の長老たちに語ったことばです。
ここでは「狂暴な狼があなたがたの中にはいり込んで来て、群れを荒らし回る」ようになるということが指摘されています。マタイの福音書7章15節に記されている
「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。」
というイエス・キリストの教えに示されていますように、「狂暴な狼」とは「にせ預言者たち」、今日ではにせ教師のことです。パウロは、長老たちはこのようなにせ教師たちの働きから群れを守るように立てられているということを教えています。
このことの根底には、イエス・キリストご自身がご自身の群れをお守りくださるということがあります。ヨハネの福音書10章11節?13節には
「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼 が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけてい ないからです。」
というイエス・キリストの教えが記されています。イエス・キリストこそがまことの良い牧者であって、ご自身の群れの羊に心をかけてくださっていま す。その栄光のキリストが、御霊によって、ご自身のからだである教会を牧する長老たちを立ててくださり、彼らを通して羊達を養い、「狂暴な狼」から群れを 守ってくださいます。
先ほど引用しましたエペソ人への手紙20章29節に続く30節には、
「あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。」
と記されています。にせ教師たちによる誤った教えは教会の外からやって来るだけではなく、教会の内側からも生まれてくると言われています。
もちろん、それは多くの場合、外側で教えられて広まっている教えに心を奪われてしまった人々によっていると考えられます。しかし、それが一部の人々に よることではなく、群れ全体が誤った教えを求めるようになり、さらにそれがその時代の教会全体を特徴づける大きな流れのようになる可能性もあります。テモ テへの手紙第二・4章3節、4節には、
「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」
と記されています。テモテへの手紙第一・4章1節にも、
「しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。」
と記されています。
このようなことを踏まえますと、長老たちの存在と働きが決定的な重さをもっていることが分かります。それはまた、長老たちが福音のみことばを正しく受 け止めていなければならないことを意味しています。特に、テモテへの手紙に記されているみことばが示しているように、誤った教えがその時代の教会全体に影 響を与えることもあります。そのようなことに備えるためには、キリストの教会がこれまでの2千年の歴史の中で経験してきたこと、特に、福音の真理をめぐる 論争の歴史から学ぶ姿勢も大切なことになります。私たち日本長老教会が採用している「ウェストミンスター信仰基準」はそのような歴史を踏まえて作成されて いますので、これをしっかりと学ぶことは、信徒にとっても大切なことですが、特に、長老たちにとっては大切なことになります。
「長老教会って、どんな教会?」(8)
今回から、長老教会を特徴づけている長老制を意識してのことですが、教会政治の理念についてお話しします。これについては、基本的な理念と、それに基づく一般的な理念に分けて考えたいと思います。
教会政治の基本的な理念として二つのことをお話ししたいと思います。今回はその第一のことを取り上げます。それは、「栄光のキリストが教会のかしらであり、教会はキリストのからだである。」ということです。
このことは、特に、エペソ人への手紙に示されていることです。1章22節、23節には、
「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」
と記されています。ここで「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」と言われている方は、私たちご自身の民のために十字架にかかって、罪 をまったく贖ってくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださって、父なる神さまの右の座に着座しておられる栄光のキリストです。
ここでは、この栄光のキリストが「いっさいのものの上に立つかしら」であると言われていて、教会のかしらであるいうことは明示されていません。これは とても大切なことですが、このことについては、すでに、第4回目のお話で取り上げましたので、改めて取り上げることはいたしません。
キリストが教会のかしらであられるということは、夫と妻の関係がキリストと教会の関係を映し出すものであること(5章32節)を踏まえて記された5章23節において明示されています。
教会を最終的に治める方は、父なる神さまの右の座に着座しておられる栄光のキリストです。それで、教会政治は、かしらであるキリストがご自身のからだである教会を治めてくださることを映し出すものでなければなりません。
この点で注目したいのは、5章25節ー27節のみことばです。そこには
「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの 何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」
と記されています。
ここでは、イエス・キリストが教会を愛して、そのためにご自身をささげられたことの目的が「しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるため」であると言われています。
ここで「聖く傷のない」ということばは、1章4節において
「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」
と言われているときの「聖く、傷のない」と同じことばです。また、思想的にも、この二つのことはつながっています。永遠の聖定において、父なる神さ まが私たちをキリストにあってお選びになり「御前で聖く、傷のない者にしようと」されたことが、歴史の中で、イエス・キリストが教会を愛して、そのために ご自身をささげられたことにおいて実現しているということです。
教会政治には、この永遠の聖定における父なる神さまのみこころが踏まえられ、贖いの御業の歴史におけるイエス・キリストの愛が映し出されなければなりません。
「長老教会って、どんな教会?」(9)
前回から、教会政治の基本的な理念として考えられる二つのことのうちの一つのことをお話ししています。それは、「栄光のキリストが教会のかしら であり、教会はキリストのからだである。」ということです。それで、教会を最終的に治めておられる方は、栄光のキリストご自身です。したがって、教会政治 は、かしらであるキリストの支配を表現するものであるとともに、教会を治めておられるキリストを映し出すものでなければなりません。
言うまでもなく、「栄光のキリスト」とは、十字架にかかって死んでくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださり、父なる神さまの右の座に 着座されたイエス・キリストのことです。栄光のキリストはご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて、私たちを罪と死の力から解放くださり、私たちを新 しく生まれさせて、永遠のいのちで生きるものとしてくださるために、父なる神さまの右の座に着座されて、ご自身のからだなる教会を治めてくださっていま す。教会政治は、このイエス・キリストのみこころを実現するために、イエス・キリストの御名によってなされます。
このこととのかかわりで、これから何回かにわたりますが、教会のかしらであられるイエス・キリストの権威の特質についてみことばが示すところを見てみましょう。
ヨハネの福音書10章10節、11節には、
「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」
というイエス・キリストの教えが記されています。実際に、「良い牧者」であられるイエス・キリストは私たちが永遠のいのち(復活のいのち)に生きるようになるために十字架にかかって死んで、よみがえってくださいました。
だれがイエス・キリストを殺したのかということですが、ペンテコステの日にエルサレムに集っていたユダヤ人に対してなされた、ペテロの「説教」を記している使徒の働き2章23節には、
「あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。」
と記されています。その意味では、イエス・キリストはユダヤ人によって十字架につけられ、殺されたと言うことができます。
今お話ししていることとのかかわりで大切なことは、広く知られていますように、ユダヤ人たちは「政治的なメシヤ」を期待していたということです。その 場合の、メシヤの権威はこの世の権威の序列のいちばん高い所にあります。それは血肉の力によって裏付けられ、支えられている権威です。メシヤはその権威に よって、その当時であれば、ローマ帝国を制圧し、神さまの律法にしたがって全世界を治めることによって、理想的な世界が到来するということが期待されてい ました。
しかし、イエス・キリストはそのようなメシヤではありませんでした。それで、いわば「にせメシヤ」であるということで、殺されてしまったのです。
イエス・キリストご自身が、「わたしの国はこの世のものではありません。(ヨハネ18:36、参照15:19、17:14-16)」とあかししておら れます。イエス・キリストの御国がこの世に存在していないということではなく、この世の権力の序列に属していないということです。
最終的にイエス・キリストが治めておられる教会の政治における権威も、この世の権威と本質的に違うものです。それがどのようなものであるかにつきましては、改めてお話しします。
「長老教会って、どんな教会?」(10)
前回は、教会のかしらであるイエス・キリストの権威の特質についてのお話を始めました。今回もそのお話を続けます。
ヨハネの福音書10章の18節には、
だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父ら受けたのです。
というイエス・キリストの教えが記されています。これは前回も取り上げたイエス・キリストが「良い牧者」としてご自身の民のためにいのちをお捨てになったことに関する教えの一部です。ここで、イエス・キリストはご自身の権威によって、私たちのためにいのちを捨ててくださったということが明らかにしておられます。ここに、神さまが神のかたちに造られている人間に委ねてくださった権威の本来の姿があります。
また、弟子たちがイエス・キリストのメシヤとしての権威を誤解して、この世の権威者たちの権威と同質のものと考えていた時のことを記しているマルコの福音書10章42節ー45節には、
あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。
というイエス・キリストの教えが記されています。弟子たちは、メシヤの権威は人の上に立って支配することにあると考えていました。当時のローマ帝国も含めて全世界の上に立って支配することであると考えていたわけです。しかし、イエス・キリストは、それは罪によって歪められたこの世の支配者たちの権威であると教えられました。そして、神の御国における権威は、
あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。
というみことばに示されていますように、仕えることにおいて発揮される権威であると教えられました。
イエス・キリストはただそのように教えられただけではありません。
人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。
と言われましたように、ご自身が私たち契約の民のためにいのちをお捨てになりました。先ほどのヨハネの福音書10章の18節の教えに示されているように、そのことにおいて、イエス・キリストはご自身の権威を発揮されたのです。
このイエス・キリストにおいて、神のかたちに造られている人間に委ねられている権威の本来の姿が回復されています。そして、イエス・キリストの十字架の死によって罪を贖われた私たち主の契約の民も、この本来の権威を発揮するようにと召されています。それは、どこよりも、キリストのからだである教会において、私たちが互いに愛し合い、仕え合うことにおいて実現し、あかしされることです。